やあやあ、若いころはロマンティックがとまらなかった鷹h氏(@noaru_takahshi)だよ。
最初に断っておきますが、この記事は決してまともな読書レビューではありません。
この記事の趣旨は、ポエムを記述する人、すなわち“ポエマー”が記述する自己陶酔で自己満足で自己倒錯な文章について、ネタとして揶揄したり、バカにしたりする風当たりの強い社会的風潮に対して断固として反対を述べるものであり、そんな逆風の中でもポエマーには強く生きてほしいと応援するためのものです。
「人の黒歴史、中二病を笑うんじゃない」(作詩:鷹h氏)
ポエムがすきな人のことを ポエマーっていうんだってさ
詩人じゃなくてさ
えっ 「詩」と同じじゃないかって?
いいや 違うんだ
カルピスと ビックルくらい 違うんだよ
さあ 恥ずかしがらないでさ こっちにおいでよ
一緒にうたおうぜ…名もなき歌 それは俺たちだけの歌
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前提:「ポエム化」する日本
ひとポエム読み終えたところでまずは、ポエムを取り巻く状況を整理します。そこの鳥肌立った方、もうちょっとだけ読み進めてください!
コラムニストの小田島隆はその著書、「ポエムに万歳!」にて、ポエムとはなにかについて語っております。
ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その「何か」になりきれなかったところのものだ。その、志半ばにして、道を踏み外して脱線してしまった文章の断片が、用紙の上に(あるいは液晶画面の上に)定着すると「ポエム」になる。私は、そのように考えている。
なるほど、ポエムは本来の目的に到達できなかった文章がポエムの定義であり、つまり、詩とポエムは異なるものであると。
書き手が冷静さを失っていたり、本当の気持ちを隠そうとしてまわりくどい書き方をしていたりすると、そこにポエムが現出する。
内側から燃え上がる情熱を冷やすことなく世の中に出してしまったり、逆に本心を隠そう隠そうとして、雰囲気で表層をあつらえようとすると、「ポエム」になりやすいということですね。
そして、小田嶋隆は、今世紀に入ってから、日本社会全体にポエティックな言葉が蔓延しつつある、と指摘します。
かつては日記や、2ちゃんねる、ブログといった、個人的な発言にだけ現れていたものが、近年、広告や雑誌のような商業メディア、はたまた東日本大震災復興会議の提言やオリンピック招致のようなメッセージまでがポエム化し始めていると。
ポエティックな言葉は、感情的であり、黙示的でもある。それを政府やマスコミまでが濫用しているというありさま。果たしてそんな日本は大丈夫なのか?と危惧しているわけです。
確かに昨今の日本におけるポエム勢力の盛り上がりはすさまじいものがあります。
マンションポエムでは、「住まいは、ヒューマンスケールの視点から新たなビジョンを語りはじめる。(※1)」みたいな捉えどころのないメッセージに溢れていたり、渋谷系メンズ浴衣カタログでは「肌で感じている 時代が俺をジェラっているのを(※2)」と謳われていたり、意識高い系の学生ブロガーのツイートとかに「俺マジで立ち止まる気ねーんで(※3)」みたいなポジティブポエムが書いてあるのを見ると、野放図な自分語りポエムが上手いこと商業広告にマッチして、世間に大ウケするみたいな流れは間違いないかと思います。
(※1)みなとみらいミッドスクエア ザ・タワーレジデンスの広告より。
(※2)SHIBUYA YUKATA COLLECTION 2014 SUMMERより。
(※3)地獄のミサワより。
人のポエムを笑うな
上記の話は、この手の黒歴史を、ブログという場所で大量に生産し続けている私にとっては、耳が痛い話です。(小田嶋隆氏自体が個人メディアでポエムを語ることを否定しているわけではありません)
ただ、私はどちらかというと「ポエム化」肯定派の立場です。
だって、世の中文章すべてが真面目でねらった通りの文章にあふれていたら堅苦しいような気がしませんか。
「ポエム」は、人々の言いようもない感情の発露であって、「ポエム」でしか表現できないような人々の本来持つロマンティシズムが内包されていて、それを簡単に嘲笑することはできないと思うんですよね。
いや、痛々しくて見苦しいのは事実なんですよ。ポエムって結局のところ、雰囲気だけなので、実質、意味不明だからね。
さらに言えば、「ポエム」は厨二病と言い換えることも出来ます。要するにはどこにもいない”特別な私”に陶酔するあまり、なんだかよく分からない表現が生まれてくるわけです。
でもね、結局、人間はなんだかよく分からないものに惹かれる性質があるんですよ。具体と抽象なら、抽象に流れるのが人間。具体的に生きるのはつかれるよね。ぼんやりと夢の中にいたいってこと。ぬるま湯に浸かったっていいじゃない。
ただし、「ポエム化によって、本来正しく具体的に表現すべきことがなんとなく曖昧になって、誤魔化されている」というご指摘は、ごもっとも。
公共機関から発せられるメッセージが「ポエム化」してしまうことは、問題の本質が覆い隠されて、「なんとなく反論しがたい雰囲気」がつくられてしまっているため、非常に問題だと思います。
でも、それ以外のポエムであれば肯定的にみてもよいんじゃないの。
ちなみに私は商業的なポエムも好きですが、どちらかというと個人的な感情から発せられる、打算ではなく、本心で書いている“ポエム”ならば、なおのこと応援したくなります。
商業的なポエムはプロが狙って作っているので、自己陶酔感と謙虚さが両立する絶妙な面白おかしさを形成するのですが、個人的なポエムは自我をドライブさせて作り上げているので、なおのこと破壊力があります。「ポエムに万歳!」の本書から例を拝借すると、中田ヒデや潮田玲子さんみたいなね。
俺が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。
(中略)
サッカーはどんなときも俺の心の中にあった。
サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。
喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。「nakata.net」(中田英寿のオフィシャルサイト)より
とか、
夢の舞台を明日に控えて想う事は君への感謝の気持ち……
(中略)
君の活躍は何よりも刺激になった。
君の優しさは何よりも癒しになった。
君の励ましは何よりも救いになった。
時にはぶつかり大げんかする日もあったけど
いつも君の存在が支えになってた「潮田玲子のブログ」より
とかね。あーー恥ずかしくてもう見てらんない!!
っていう感じでテンション上がりますよね。
ああ、なんだか私もポエムが書きたくなってきた。。。
よし、ポエム表現の素晴らしさをポエティックに記述していこう。
「ポエマーわっしょい」(作詩:鷹h氏)
ポエム あるがままに綴られたpassion
ポエム こころの奥底から溢れ出るfountain
堅苦しい言葉なんていらない 体裁なんて気にしなくていい
ポエムはなにものにもなりきれなかった言葉だから
なにものでもあるということは言えやしないか
つまり ポエムはどうとでも解釈できる
そう 想像はみんなの心の中に
It’s our future…Inspire the next…
…うーんだめだ、素人のポエマーがポエムを書いていてもらちが明かない。
伝説のポエマー「保木渡流」さんのポエムをみんなで朗読しよう。
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「天草サブレ」 (作詩:保木渡流)
サブローとレモンで サブレだっちゃ!
オ~~イエス オ~~プリーズ
ム~~ン スッポーーーン プリッ ブリブリッ!!
なんかムズムズすると思ったら くつ下の中に
黒まめ入ってたよ ム・カ・ツ・ク~~
モケケ モケケケ よ~~し
ぜったい生徒会長になる!!
最後に!!
はッ、しまった!ポエムの力が強大過ぎて、後半、何を書いているんだかわからなくなってしまった!!
そう、冷静さを失うと人はポエムを作り始めるのです。ポエム恐るべし。。。
ブログって一番「ポエム」が発現しやすい部分ですよね。
皆さんも人のブログや日記やSNSなどを眺めている時に、ふいに「ポエム的」文章に出くわすことってあると思います。そんな時は、(こいつ、我を失っているのだな)と、軽く笑い飛ばしたり、恐れおののいたりすることをオススメいたします。
酔っ払いを見ているときと一緒です。ポエマーを完膚なきまでに叩くのではなく、笑い飛ばせる寛容さが大事ってこと!!
まあ つまりは そういうことさ
俺達の冒険は、まだはじまったばかりなんだ…
![]() ポエムに万歳! [ 小田嶋隆 ] |